【デジタル大好き税理士・戸村涼子presentsペーパーレスから始めよう】完璧を出力するAI時代にこそ、拙い外れ値に価値がある

たった数年で、AIが文章を書き、絵を描き、動画や音楽まで作る時代になりました。もはや、「平均以上」を目指すのであれば、AIによるコンテンツに勝るものはないでしょう。それでは、人間が生み出すコンテンツの価値はもうないのかというとそんなことはありません。そのヒントとして、筆者は「拙い外れ値」にあると考えています。今回は、私がしている拙さの記録とその価値について書きます。

拙いまま、アウトプットしている

私はこれまで、書籍や雑誌、Webサイトに文章を書き、外部から研修講師としてお招きいただいたり、動画に出させていただいたりしています。このような活動をしていると、ときに人から「完璧なアウトプットをしている人」と見られることがありますが、決してそんなことはありません。これらの完璧(に見える)アウトプットの前には、膨大な拙いアウトプットをしています

例えば、仕事で考えてみます。仕事こそ完璧である必要がある、と思われる方も多いかもしれませんが、その完璧が、本当にお客様のことを思ってのものかどうかは人間にしかわかりません。私は税理士業をしていますが、お客様から日々質問が寄せられます。そんなとき、「平均以上」を目指すのであれば、AIが回答したものをささっと提供したほうが良いでしょう。でも、私はそれをしません。お客様は画一的な存在ではなく、長い時間をかけて共に過ごした、血の通った生身の人間であるからです。答えは相手によって違っていて当然で、「平均以上」の回答が必ずしも求められていないケースもあります。したがって私は、たとえ世の中の平均と外れた、場合によっては同業者から「拙い」と思われるような回答も、ときにはすることがあります。

仕事以外でも、拙さをアウトプットし続けています。私は個人名で自分のサイトや文章投稿サイト、動画サイト、SNSに日々文章や動画を投稿しています。その内容はAIが出すような「平均以上」とは程遠く、起承転結もはっきりしない、単に思考プロセスを投影した文章や、決して世間一般からすると上手ではない楽器演奏、イラストなどです。AIに「お直し」もほぼしてもらっていません。でも、このような「拙さ」がAIによる「平均以上」のコンテンツが溢れる時代に、価値があるのでは、と考えて続けています。なぜなら、AIが出力する完璧なアウトプットに欠けているものがあるからです。

完璧なアウトプットに欠けているもの

AIが出力する完璧なアウトプットに欠けているものとは、以下のものです。

プロセスが見えない

ある程度の精度で指示を出せば、AIは完璧な完成品を出してきます。文章、画像、動画あらゆるものを数秒で作り上げます。しかし、そこには試行錯誤の痕跡が残りません

私は文章が好きなので文章の例で説明します。普段文章を書いていない人からすると、本などのメディアは「わかっているひとが、わかっていることを書く」と思われるかもしれません。でも、実際は「わかっていないひとが、わかるために書く」ことのほうが多いと考えています。私も日々文章を書く身として、「書いている間に道筋がたつ、新しいアイデアが浮かんでくる」ことが多いからです。むしろ、書く前は「あまりわかっていない」ことの方が多いのです。正解を言い切る本と、著者が試行錯誤しながらとりあえずの正解を導き出す本とでは全く質が違います。私は正解ありきの前者はAIに代替ができ、プロセスありきの後者は人間にしかできないことだと考えています。

完璧だからこそ、余白がない

AIの整いすぎたアウトプットには、余白がありません。ちょっと話はずれますが、私はAIが出力する写真や画像があまり好きではありません。情報がみっちり積み込まれていて、「これはAIによって作られたものだな」とわかってしまうからです。

良いアウトプットは、受け取る側に入り込む隙間があるものと考えています。美術館をイメージすると良いかもしれません。美術館には、たっぷりの空間があり、訪れる人が思いのままに作品と共に想像することができる余白があります。それと同じように、文章や動画、画像、音声などのコンテンツも、「ちょっと足りない」「ちょっとずれてる」「ちょっと下手」くらいのほうが、受け取る側がその後考えるきっかけになると考えています。

外れ値がでない

AIはあらゆる文体や表現を学習して似たような「平均以上」に収束しがちです。そこには、作った人の好奇心、悩み、癖(「外れ値」といってもいいかもしれません)などは排除されます。AIが出すアウトプットの面白みのなさは、ここにあると考えています。

私は絵画が好きなので絵画の例をひとつ出そうと思います。以前、ルノワールとセザンヌの絵を比較する企画展を見に行きました。いずれも19世紀後半を代表するフランスの画家ですが、その画風は大きく異なります。大雑把に書くと、ルノワールの絵は「美しさ」「明るさ」を、セザンヌの絵は「構造」「思索」といったキーワードが想起されます。誰が見ても美しいと感じ、万人受けするのはルノワールの絵だと感じました。ある意味完璧なルノワールの絵に対してセザンヌの絵は、「これは塗り残しではないか?」というように見方によっては「拙い」「不完全」の印象を受けるものもありました。しかし、私はこの「拙い」「不完全」に、セザンヌの人間性を感じました。塗り残しにも、彼なりの表現があったのだと。そしてそこにあらかじめ平均以上を出力することが運命付けられているAIには出力できない「外れ値」が宿っていると感じました。世の中が変わっていくきっかけとなるのはそのときには誰も注目していない「外れ値」であって、無難に作った平均以上のものではありません。

AI時代だからこそ、拙い外れ値に価値がある

先ほど説明した外れ値は、狙って出せるものでもありません。AIによってますます世の中が最適化していくなか、外れ値をどう作っていくのでしょうか。そこでキーワードとなるのが「拙さ」と考えています。世間一般の平均以上でない(誰からも認められていない)からこその外れ値であって、最初から上手を目指していっても外れ値には到達できません。また、拙い外れ値には再現性がなく、だからこそ周りの人を巻き込んだ共鳴が生まれると考えています。したがって、世間一般に認められるかどうかわからない状態で、拙さを恐れずにアウトプットし続けることが、人間が今後する価値のあることと考えています。

具体的には、以下のことを人間がやる意味があると考えています。

拙さを恐れずに、自分で作る

まず、「こんなのAIですぐに作れる」と思っても、敢えて自分で作ってみることです。例えば筆者は、AIの利用方法は「自分の思考の拡張」がメインで、AIに直接何かを作ってもらうことはほとんどありません。文章は自分で書きますし、写真も自分で撮るし、イラストも自分で描きます。自分がそうしたい、というのもあるし、拙さを敢えて見せることで見た人に対して前述した余白を残せるようにしたいからです。

変化のプロセスを残す

先ほども触れたとおり、拙さを残すことはプロセスを残すことともつながります。例えば、筆者は過去に書いた書籍や文章を読むと「今だったら書かないな」と思うものがよく見つかります。ときには、恥ずかしいと思えるような拙い表現も見つかることがあります。しかし、それは人間としての変化のプロセスとして考えれば普通のことです。もし、AIによる平均以上のアウトプットしかしなかったら、反省点すら見つからないかもしれません。そうなると、恥ずかしい思いはしないかもしれませんが成長の実感もできません。そして重要なことは、受け取る側も、アウトプットしている人の思考過程を覗けるほうが人間らしさを感じられるし、学びにもつながるということです。AIによる平均以上のアウトプットでわかった気になるよりは、人間が人間臭く試行錯誤したプロセス(たとえ正解でなかったとしても)に触れた方が深い学びにつながるはずです。

AIが最適化されたコンテンツを大量に生み出す時代には、その反動として、整いすぎていない、雑然とした、ときに拙いとも言えるような人間らしさへの需要が高まるはずです。そしてその拙い人間らしさは、平均化された世の中に対する外れ値として価値を持っていくと考えています。だからこそ、私たちは日々AIに積極的に触れながら、人間がしていくべきことを問い続ける必要があると考えています。

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